或阿呆の読書

某月某日

「お迎え現象は、臨終に近づくにつれて訪れる生理現象で説明できるが、幽霊は正常な意識を持ちながら、身体的にも異常がないのに発現する現象だ。それも個人史や宗教観は関係なしに出てくる。つまり脳循環の機能が低下したとか、そういう生理現象ではないということだ。おそらく、この社会が合理的ですべて予測可能だと思っていたのに、それが壊れたときに出てくるんじゃないか」

「魂でもいいから、そばにいてー3.11五の霊体験を聞く」(奥野修司/新潮文庫)は、震災遺族の霊体験をまとめた秀逸なルポルタージュである。

冒頭の、癌に侵され余命いくばくもない医師の言葉に導かれ、筆者と読者は「この世」という一見明晰で、科学的で、合理的であるかのような世界から、「あの世」という曖昧で仄暗い世界へと、すうっと拉し去られる。

”「今でも忘れない不思議な出来事が起こったのはその頃です。東京に行く用事があったので、震災の年の七月三日に気仙沼のブティックで洋服を買っていました。四人ぐらいお客さんがいて、一人ずつ帰っていき、私も洋服を手にしてレジに向かったら、最後まで残っていた女性のお客さんから『どなたか亡くなりましたか』と声をかけられたんです。びっくりして振り向くと『お父さんとお母さんでしょ?あなたに言いたいことがあるそうだから、ここで言ってもいい?』

店の人が言うには、気仙沼で占いを職業にしている方で、女性雑誌にも出ているそうです。私はほとんど反射的に『はい』と返事をしていました。私はその頃、左の腕が重いというか、肩こりでもない、筋肉痛でもない、なにか違和感があったので、原因がわかるかもしれないという気持ちもあって承諾したのだと思います。

『あなたは胃が弱いから胃の病気に気をつけろとお父さんが言ってます。お母さんは、ありがとうと言ってますよ』

そこで号泣してしまいました。

『ちゃんと伝えたから、もうお父さんとお母さんには帰ってもらっていいかしら』と言われ、何だかわからないままうなずきました。

そしてその方が私の肩のあたりを触り、お経のような呪文を唱えて私のまわりを一周すると、左肩をポンポンと叩いたんです。すると突然、左肩から、サーチライトのような光が真っ白な円柱になって空へ昇っていきました。ちょうどバットくらいの太さでした。一瞬でしたね。店員さんたちもその場にいました。

『見えたでしょう?』

『はい』

『安心して上がっていったから』

いつの間にか、私の腕にあった違和感が消えていました。”


じつは私はこうした話を読んで、何の違和感も覚えない。

なぜなら私にも霊感としか形容しようのない感覚があるからだ。

左肩に「何かが憑く」感覚は分かるし、特定の人や場所にある「気」のようなものも感知してしまう。

しかも困ったことに、邪悪なものと穢いものばかり明確に察する。

おそらく怨念や欲得といった強い情念ほど滞留しやすく、私の貧弱なアンテナでも感知してしまうのだろう。

さて、わがヨンデーの近くにコンビニジムができた。

そこには駐車場がないので、利用者は近隣施設に無断駐車をするほかない。

わがヨンデーの前にも無断駐車をする女がいるが、なぜかクルマごと強烈にヤバい気を発しているのだ。

ちょっと感じたことのない凄さであるので、コンビニジムで存分に発散してもらいたい。

某月某日

とある巨大アパレル企業の創業社長が新入社員を前に「無知の知」という言葉を使ったとの記事を読み、この組織の衰亡を確信した。

「無知の知」ほど危険な言葉はない。

なぜなら自分と他人を同時に刺してしまう言葉だからだ。

たとえばこの創業社長のように、上の者が下の者に向ければ士気を削いで組織を弱らせるし、下の者が上の者を刺せばどちらも無傷では済まない。

不勉強な怠け者が使えば嗤われるし、勤勉を気取る者が使っても軽蔑される。

ことほどさように厄介であるがゆえに、こうしたソクラテス主義的言葉は真理として棚上げされ祀られたのである。

ところが、そうした態度に我慢できない懐疑家がいた。

ニーチェである。

彼は「悲劇の誕生」において、ソクラテス主義者を芸術の根本原理ー理知主義では捉えきれぬものーを解さぬモグラ野郎と攻撃したが、これは同時に学者としての基盤である科学的合理主義をも攻撃することとなり、結果、論争にも敗れ学者生命を絶たれることとなる。

それでも一切の価値に懐疑の目を向け、価値転倒に挑んでいったこの哲学者は、様々な問いを投げかけたまま生を終えていく。

ところで長年ニーチェを読んできて思うが、彼の思想が何か人生の役に立ったという記憶はない。

それなのに、何度読んでも面白いから困る。

ウェイトトレーニングも同じで、健康のため、美容のため、といった「ためにする」トレーニングを職業として指導してはいるが、私自身がトレーニングをする動機はそこにはない。

何万回やってもただただ面白いから、トレーニングをしているのである。

何なら、いまさら効率とか成果とかどうでも良くて、やれない理由がない限りトレーニングは毎日やっている。

むしろ今となっては、意味や動機に縛られなければできないトレーニングなどやっても仕様がないとさえ思うのである。