「たかが資格」ではあるけれど


パーソナルトレーナー業は、いずれ免許により規制される日がくるだろう。

免許とは字のごとく「免じて許す」、つまり重大な危険性から原則禁じられている行為が、ある条件を満たす者に限って特別に許されてあることの証明をいう。

運転免許・医師免許・狩猟免許など、いずれも高い有益性と危険性を併せ持つから、厳密な条件のもと禁止が解かれるわけだ。

そして「高い有益性と危険性を併せ持つ」ことにおいて、パーソナルトレーナーが処方するトレーニングもまた例外ではない。

なぜなら素人芸とは比較にならぬ効果を謳っている以上、攻めた内容を取らざるを得ないことが多いからだ。

果たして、先ごろ国民生活センターから”「パーソナル筋力トレーニング」での怪我や体調不良に注意”なる不穏なレポートが出た。

内容は取るに足らぬ作文であったが、あれは国が規制の検討に入った合図と見るべきであるし、実際そうした噂も仄聞している。

「パーソナルトレーニングは危険ですよ、だから規制が必要なんですよ」と。

私は自由主義者であるから、あらゆる規制には反(anti)の態度を取るが、トレーニングが本質的に危険であることは争えぬ事実である。

日常から遥かに懸け隔てた負荷を身体に与える行為が、絶対に安全といえる筈がないではないか。

ましてパーソナルトレーニングではクライアントに対してトレーニングの強制力が作用する。

自律的に行われるトレーニングより、相対的に高い負荷が課される事実は否定できない。

だからこそパーソナルトレーナーは、自らの能力・資質・日々の仕事に対して懐疑的でなければならず、客観性の確保のために指導者資格を取得するのが専門家への第一歩であった。

ところが昨今、資格すら取れない人たちがパーソナルトレーナー業務を行っている。

このままでは事故や事件の増加や、それを受けた規制強化への社会圧の高まりは避けられないだろう。

しかし不思議である。

いやしくもトレーニング指導という特別な職業に自ら奉じようとするとき、知識や技術に自信があるなら、それを信頼できる資格によって客観的に検証・証明したいと思うのが自然ではないか。

逆に自信がないなら、せめて資格試験でそれを学び補おうとするのが誠実さではないか。

そのどちらもない人たちは、パーソナルジムという閉鎖空間でクライアントに対して一体何を行っているのだろうか。

たかが資格、ではある。

資格があるから有能である、とならないのは私自身痛感するところであるし「この人トレーニングしたことあるのかな」的な有資格者も多い。

けれどRPEとかWork-Rest-RatioとかTHRとか、知らないと困る専門用語は限りなくあり、指導技術も専門知識の裏打ちなしに安全/危険、有益/無益の弁別はできない。

こうした「専門家としての基礎知識」を網羅的に学ぶには、信頼できる資格を取るのが最も効率的なのだ。

以上の観点よりヨンデーの「パーソナルトレーナー養成コース」では国際的な認定団体の資格取得(支援)を行っている。

資格取得を軸に、専門家としての強固な知的地盤を徹底的に固めていく。

その上に築き上げた身体と指導技術とをもってすれば、この先免許制になる日が訪れても、パーソナルトレーナーとして仕事の価値を高く保ち続けることができると確信するからだ。