ライバルはどこにいる?
週3回のトレーニングと食事管理により、1ヶ月半で体重を4kg落とした。
あと3kgで体重80kg、体脂肪率10%になる。
この”80kg/10%”が、いくつかある私の「基準点」の一つである。
これ以上では外見を損ねるし、これ以下では筋力を失う。
だから基準点から離れ過ぎないようトレーニングと食事で管理している。
基準点をどこに置くか
三島由紀夫は文学の原理を「散らぬ花を咲かすこと、すなはち造花である」といった。
トレーニングもまた同じである。
「これが本来の私というものか」といえるような身体をつくり、それを造花の如く永らえようとする精神の営為こそトレーニングの原理なのである。
真剣に身体をつくり、そこに「当たり前の自分」の基準点を置く。
ひとたびそれに成功すれば良い身体を保ち続けることなど容易い。
なぜなら精神というのは永劫性を志向するものだからである。
永劫的なもの
永劫性…たとえば私がバーベルの前に立つとき、傍らにはいつも二十歳の私がいる。
真夏の避暑地の薄暗い合宿場で、ガムシャラにバーベルを挙げていた頃の私が。
そいつにだけは1kgたりとも負けてなるまいと今日もバーベルに挑む。
あわよくばそいつ…もう一つの基準点…を超えてやろうと知恵を絞る。
こんなふうにライバルの姿が見えている限り、ショボくれたトレーニングで茶を濁すことはない。
そういえば最近のヨンデーにも、ハードワークを厭わない大人が本当に増えた。
男女の別なく滝のように汗を流し、時に気合の声を挙げながらガツガツ鍛えている。
かれらの目にも、過去か未来のどこかにいるライバルの姿がはっきりと映っているに違いない。
そこには短期的な成果もなければ明確なゴールもない。
自分の中にライバルが生きて在る限り、トレーニングの曠野は永劫に広がり続けるのである。