或阿呆の日記

某月某日

パーソナルトレーニング経験者の入会が増加している。

かれらは短期的な成果よりも、1回1回のトレーニング・セッションに「体験の強度」を求めてくる。

体験の強度とは、トレーニングをする側と教える側の必死さの共鳴である。

デュオニソス祭的な、没我的な共苦の感覚である。

大人同士が真剣なトレーニングを介して対峙するという反ー日常性である。

こうした体験にこそ、しんねりむっつりと一人で行う普通のトレーニングにはない、パーソナルトレーニングならではの魅力の根幹がある。

ヨンデーはいまパーソナルトレーナーを養成しているが、彼女たちには単なるトレーニングの説明係ではない祭司的な仕事を期待している。

某月某日

”人間は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱だ、――深淵の上にかかる綱だ”(ツァラトゥストラ)

”怪物と闘う者は、その過程で自ら怪物と化さぬよう用心しなければならない。おまえが深淵を覗くとき、深淵もまた等しくおまえを覗き返すのだ”(善悪の彼岸)

深淵には一体何があるのだろうか。

…何もないのである。

深淵とは、意味も価値も目的もない完全なる虚無である。

而して我々の生とは、その上を漂う塵のようなものだ。

…こうした思想を虚無主義とよぶ。

生の価値を担ってくれていたはずの神は死に、生を救済しうる芸術も途絶えたなかで、ニーチェは虚無主義の克服のために”力への意志”という概念を生成する。

力への意志とは、貴族的な距離感覚からなる「より高い生を追求する動機」である。

貴族的な距離感覚とは高貴か卑俗か、強いか弱いかという価値判断からなる。

ここで注意すべきは、彼のいう高貴さや強さは、この国に溢れかえるような「徒党をなして力を誇示する者」「収奪する者」には全くないということだ。

徒党をなすのは弱者の証左であり、収奪とは卑俗な振る舞いだからである。

虚無主義の泥沼を小器用に泳ぐだけの彼らに「より高い生」を創造しうる高貴さなど宿りようがないのだ。

一方、ニーチェのいう力への意志とは「独りで高みを目指す者」「分与する者」のものである。

凡庸な枠組みに囚われず、自ら高いところに定めた「こう在りたい」に向けて走る。

やがて力を得たさいには、それを求める人に惜しまず分与する。

こうした態度を取る覚悟さえあれば、深淵など一足で飛び超えていけるに違いないのである。

某月某日

祭りだ旅行だ飲み会だと、この時期はドタキャン三昧である。

皆さん晴れ晴れとした表情で復活してくるので、まあ悪いことではない。

何より自分のトレーニングが確保できて助かる。

腕を徹底的に鍛えるとか、時間に余裕がないと中々やれないのだ。

いつも軽い重りで膨らまして誤魔化していたが、やはり高重量でネチネチやらないとサイズが残らない。

そうして気が済むまで腕を鍛え、全身を眺めていると胸筋のショボさや腹部の甘さが嫌に目につく。

・・・トレーニングには終わりがない。

何年やっても、もっとマシになれるだろうという希望が捨てられない。

けれど、これは自分への期待を持ち続けて長く楽しむことが出来る、ということでもある。

トレーニングを飽きずに続けるコツがあるとするなら、目標を上手に置き換えていくことだ。

・筋力を伸ばすのに飽きたら、外見を変えてみる

・外見に納得できたら、動きを良くしてみる

というふうに。

実際、長く続けておられる会員の方はみな目標の置き換えが上手い。

ダイエットで入会したはずが、いつの間にかダイエットを終えてスポーツの補強に移行していたり。

腹を引っ込めに来たはずが、筋力追求がメインになっていたり。

自分の可能性への興味という松明を燃やし続ける限り、おそらくトレーニングに飽きることはない

トレーニングというのは、それだけ広く深いものなのである。