パーソナルトレーナーの存在論
ヨンデーはいま、パーソナルトレーナー育成の真っ最中である。
教えながら、改めてパーソナルトレーナーという仕事の困難を思い知る。
パーソナルトレーナーに求められるものは大きく3つある。
1)広汎な専門知識
2)高いトレーニング技術
3)それらを伝える指導技術
これらの総乗が専門職としてのパーソナルトレーナーの能力をなす。
なぜそう言えるのか、以下に私見を述べる。
信仰告白の真似事をすることには、いまさらながら逡巡もある。
しかし他人の人生に関与する仕事において、存在論的な自問は避けて通れぬ問題なのである。
1)広汎な専門知識
全く問題のないクライアントというのはない。
誰しも、どこかが必ず悪い。
慢性的な腰痛持ちとか、難しい内臓疾患があるとか、不良姿勢とか、生活習慣に問題があるとか。
そうした方々が、処方箋としての運動を求めてくる。
こうしたクライアントに、一対一で、一歩間違えば事故になる「トレーニングという”危険な万能薬”」を処方するのがパーソナルトレーナーである。
だから面談から指導まで、常に起こりうる危険に神経を尖らせていなければならない。
何かあったら責任が問われるからだ。
こうした怖さを知ればこそ、まともなパーソナルトレーナーは専門資格で知識の正当性を担保し、医師や治療家向けの専門情報を渉猟して知識の隙間を埋めることに必死になる。
こうした面倒な取り組みだけが専門職としての地力をつけ、ひいてはパーソナルトレーナーとしての価値を高める。
「身体自慢が、それらしい能書きを垂れて初心者に筋トレを教える仕事」では未来がないのだ。
2)高いトレーニング技術
トレーニング技術は様々な角度から評価される。
・合目的かつ安全な方法であるか
・動作の可動域やテンポは適正であるか
・代償動作が含まれていないか
・動作感覚と目的とが一致しているか
たとえば脚のトレーニングを例にとると、こんな風になる。
・何を目指して鍛えるのか
・方法はバーベル・スクワットか、デッドリフトか、それ以外か
・負荷・反復回数・セット数・休息時間は理に適ったものか
・それらの選択の根拠はなにか
・そのテクニックは、その人にとって安全かつ効果的であるか
・「正しい動作」がなぜ正しいのか、これらの説明を踏まえて示範できるか
こうした理論化・言語化・実践化の輪がトレーニング指導の実態をなす。
これらを見誤ると成果は遠のき、事故を招き、そして人は離れていく。
3)指導技術
指導とは対話である。
ハイデガーの術語を用いてボクシングで例えるなら「空談」というジャブで距離を操作しながら「語り」というカウンターを誘い、そこに「存在の深い目覚め」を促す一撃を見舞うことが、指導であり対話である。
この方は本心では何を求めて、わざわざパーソナルトレーニングに来てくれているのだろうと探り続けること。
「身体を引き締めたい」
「体力をつけたい」
みな、こうした分かりやすい名目で入会されるが、真の動機はもっと深いところに隠されてあることが多い。
それは当然のことだ。
身体を引き締めたいから、体力をつけたいから、なんてちっぽけな人参だけでトレーニングの曠野を走り切れるほど、人は強くないからだ。
「来て良かった、楽しかった、発見があった」と心から思って頂ければこそ、選び続けていただける。
それが指導技術の核でなければならない。
じゃあその人は何に魅力を、喜びを感じているのか。
それを知る術は、目の前にいらっしゃるクライアントとの対話であり、必死の指導なのである。
あとがき的なもの
ここまで必死にやっても、かならず報われるとはいえないのがパーソナルトレーナーの仕事である。
それでもなおパーソナルトレーナーで勝負したいという人には、いずれ名前で人が集まるくらいの能力と、将来に夢を描けるような待遇を提供できるようにならなければならない。
そしていつか、専門学校と比較されるようなトレーナーへのキャリアパスとしてヨンデーが認知される日がくればいい。