或阿呆の連休
”幸福ではない。断じて幸福ではない、快楽だ!(Wilde)”
某月某日
クリーンで100キロを取り損ねて、呆然と立ち尽くした。
私にとってクリーンの100キロとは自転車に乗るとか箸を持つとか、その類のものだ。
「連休だし、アップ代わりにクリーンでもやっておくか」の結果がこれである。
たとえ何年サボろうとも、ひとたび試みればバーベルは猫のように私の肩に跳び乗ってくるはずだった。
当たり前にできたことが、ある日できなくなることほど恐ろしいものはない。
私は何を失くしたのか。
技術か、筋力か、あるいはその両方か。
試技を繰り返し、動画を撮り、失くしたものを探し回る。
幸い、原因はまもなく見つかった。
指である。
ヨンデーでは種目や器具に応じて握り方を細かく指示する。
中にはFinger-GripやPalm-Gripといった独自の解釈さえある。
ところがクリーンは、その分類を離れた握りを行う。
安易に握力補助具を頼る癖によって、そんな指の役割をすっかり失念していたのだった。
その後、バーベルは何事もなかったかのように私の元に戻ってきた。
感覚を紛失しないよう稽古をし、気づけば2時間が経っている。
次の日の体調を気にしていたらこんな贅沢な過ごし方はできない。
休日とは素晴らしいものだ。
某月某日
指の使い方の誤りは他のトレーニング全般に影響を及ぼしているのではないか。
遅い朝食を済ませてのち、自宅でダンベルを持つ。
すると案の定、新しい感覚が次々に訪れる。
興奮のなかメモを残しながら、様々な種目を試していく。
むろん、こうした「採れたての感覚」を指導に用いることはない。
なぜなら再現性の検証と根拠付けとを行ったうえで握り方の再解釈を行わないと、指導という商品の品質は担保できないからだ。
こうして2時間のトレーニングを終え、風呂に向かう。
脱衣所の鏡には精気を取り戻した身体がうつる。
これだからトレーニングはやめられない。
某月某日
目が覚めると全身が痛い。
朝はこうでなければならない。
枕元の時計に目をやると、起きるにはまだ早い時間だ。
読み止しの電子書籍を眺めつつ眠気の訪れを待つ。
二度寝をすると、一回りキツい筋肉痛が味わえるのだ。
よく「何を楽しみに生きているんですか?」と真顔で聞かれる。
酒食や旅行といった通俗的娯楽の一切をもたない私が奇妙にうつるらしい。
何のことはない、そんなものよりトレーニングの方が面白いからだ。
さて連休の間に事業計画書だジムの見学だと考えていたけれど、トレーニングをしていたら自ずと「これからのヨンデー」の像は結ばれた。
私は「ためにする」トレーニングというのが好みでない。
美容のため・スポーツのため・健康のため…その程度なら、そこいらのジムで事足りる。
それよりヨンデーはトレーニングそのものへの熱量に拘りたい。
濃密で没我的で、感情を揺さぶるトレーニング体験を供じたい。
そうすれば「成果」なんてものは勝手に付いてくる。
そもそも感情の爆発もなく、しんねりむっつりと力むのはトイレの中だけで充分ではないか。