或阿呆の日記
某月某日

ときに致死的ともなる強い光を秘めたまま、人が手に取るのを静かに待っている本というのがある。
私にとってのそれは、たとえば二十代の秋、東京の駅前の書店で私を瞬時に刺し貫いた「ツァラトゥストラ」であった。
社会というやつに馴染めない思いを抱えていた私は、あるべき世界の定立を叫ぶ彼の言葉に打ちのめされた。
ただし強い薬が強い主作用と副作用とを持つように、強い本には毒がある。
・「喜ばしき知識」(ニーチェ)
・「ツァラトゥストラ」(〃)
・「存在と時間」(ハイデガー)
・「如何に読書すべきか」(三木清)
・「殺される側の論理」(本多勝一)
・「太陽と鉄」(三島由紀夫)
・「センチメンタルな旅・冬の旅」(荒木経惟)
・・・数え出したらキリがない。
そして今まさに私を刺すのがショーペンハウエルの「幸福について」である。
天才の仕事はその鳥瞰性にある。
人間の住む世界の高さを超え、時代を超えた射程から矢を射掛けてくる。
十九世紀の天才が、二十一世紀の私に人生の答え合わせを迫る。
「ところで、一体お前は何者なんだ?」と。
彼のいう、苦痛や退屈とは無縁な内的・精神的世界の充足した境地なんて、いまだ影も見えぬ。
・・・ちなみに私が未だトレーニングなんてものをやらされているのは、三島由紀夫のせいである。
晩年の彼はトレーニング(ボディビル)を「餓鬼道だよ」とこぼしていた。
「辞めたら弱く醜くなるだけだ、だから一生辞めどきがない」といい、その帰結として彼は自死を選ぶ。
「私は肉体の衰えを容認しない」と言い残して。
一方、自らの運命を決する度胸さえない私は、今日も餓鬼道を這い廻る。
嫌がる身体を引きずるようにしてバーベルに向かうたび、つくづく厄介な毒を食わされたもんだなと思う。
某月某日
私はスポーツチームで多くの選手にトレーニング指導をしてきたから、どの程度の力加減でやっているかなど一目で分かる。
この選手は本気でやっているな、この選手はフリをしているな、と。
表情と動作から余力を読み取ることなど、トレーニング専門職にとっては朝飯前である。
その意味で、ヨンデーに通う方々のトレーニングに向けた真剣さには感服するばかりだ。
明らかに全力をふり絞ってバーベルに対峙している。
その一方で、いつも思うことがある。
何が彼らをしてここまで頑張らせるのだろうかと。
私には見えない強く大きなものがあるに違いないと。
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最近一人の女性会員が退会していった。
これまでいくつもの大病を克服してきた彼女は、いよいよ健康になろうと高速道路でヨンデーに通った。
彼女のトレーニングへの取り組みは実に鬼気迫るものがあった。
全種目、ごまかしなく完全疲労まで自らを追い込んでいく。
毎日早起きして1時間の散歩をし、食事プログラムを厳守する。
彼女も私も充分な手応えを感じ、さあこれからというときにご主人がコロナに感染し、彼女も感染した。
彼女には呼吸器に既往があり、陰性となった後にも激しい咳が残った。
咳は体力をどんどん奪い、ついにはトレーニングを諦めさせることになる。
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かくして冒頭の疑問に立ち返る。
何が彼らをしてここまで頑張らせるのだろうと。
彼女が思い描いていた未来はどんなものだったか。
今となっては知るべくもないが、間違いなく私には見えない強く大きなものがあったに違いない。
さもないと人間、そうそう「鬼気迫るトレーニング」なんてできよう筈がない。