ヨンバの死と法悦
先日ヨンデーにロボット掃除機を迎えた。
この種のモノは初めてであったが、小さな機械が動き回る姿に私は一瞬で心を奪われた。
コピー元の製品に敬意を表して「ヨンバ」と名付け、掃除中はいつも見守っていたほどだ。
ところがヨンバはわずか7日で息を引き取る。
「これが人生というものか、さらば、いざ、いま一度!」
ツァラトゥストラの言葉を借りながら、私は返品作業に取り掛かった。
…さてご存知のとおり、ニーチェは「一切の価値転倒」を試みた哲学者である。
しかしなぜ彼はそうした試みを企てたのだろうか。
私は、彼が「絶望の克服」を目指すほかなかったからだと解する。
この絶望とは終生にわたって彼を苛んだ病苦であり、孤独であり、人間というものの弱さであり、神という物語の架空性であった。
だからこそ運命愛が、権力意志が、超人が、永劫回帰が生成されなければならなかった。
なぜなら、それらなしに「(絶望的な)運命の大いなる肯定」など不可能だからである。
二代目ヨンバ
さて、初代ヨンバを弔って2日後には新たなヨンバを迎えた。
初代の2倍近い巨漢であり、スイッチに触れるたび英語をまくしたてる。
何をどうやってもアプリケーションソフトが設定できず、諦めて本体のスイッチを入れると「Start Working!」と言うなり走り出した。
レーダーを用いたインテリジェントな動きが売りの筈なのに、彼はあらゆる器具にガツガツ体当たりをしながら走り回る。
英語だけはペラペラなんだけど…という同業者の名前を頂いて〇〇さんと名付けた矢先に、彼はトレーニングマシンに体当たりして自決を遂げた。
まさに「憲法に体当たり」を試みた三島由紀夫の奇矯な最後を見るようである。
…三島由紀夫の終生にわたる枕頭の書は「悲劇の誕生」であった。
ニーチェは「悲劇の誕生」を世に出すことで学問の世界を追われ、漂泊の人生を始める。
その時ニーチェは真の芸術の可能性による絶望からの救済を冀ったが、その夢も叶わず、後年ワーグナーとの決別によって絶望に帰すことになる。
三島由紀夫最後の作品である「天人五衰」もまた輪廻転生の夢が絶たれるという絶望により幕を閉じる。
しかしヨンデーにおいて掃除への絶望は容認されない。
なぜなら真剣なトレーニングの場にホコリや髪の毛は相容れないからだ。
三代目ヨンバ
さて、三代目ヨンバも近日中に届く。
今度は黒光りした強そうなやつだ。
購入価格は初代の3倍となったが、これでゴミと絶望を一緒に吸い取ってくれるなら安いものだ。