趣味は読書

”読書家とは一般的教養のために読書する人のことである。単に自分の専門に関してのみ読書する人は読書家とはいわれぬ。教養とは或る専門の知識を所有することをいうのではなく、却って、教養とはつねに一般的教養を意味している。(「如何に読書すべきか」三木清)”

某月某日


トレーナー資格を申し込んだら、英語の分厚いテキストがボンと送られてきた。

「まあ何とかなるでしょ」という思い込みは数頁で打ち砕かれ、ひたすら単語を調べながら文意を拾っていく。

英文読解の魅力は「あるとき突然、パッと視界がひらけて全部読めるようになる」体験にある。

それは子供の頃、補助輪を外して数分後には自転車を乗り回せていた、あの感覚に近い。

このテキストも3回通読する頃には自分のものになっているだろう。

とまれ、この資格取得によって身体機能評価とプログラムデザインの能力が増強され、より上等なトレーニング指導が実現されるはずだ。

某月某日

”むしろこう言ったらよかろう。「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなわち造花である。かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。(「太陽と鉄」三島由紀夫)”

三島由紀夫の特異な魅力は、厳格な二元論者であったところにある。

認識と行為(「豊饒の海」「金閣寺」)、日常と非日常(「近代能楽集」「サーカス」)、肉体と精神(「癩王のテラス」)、そして文と武(「太陽と鉄」)、これらは絶対的に対立しなければならず、その均衡を破るものは劇的な死をおいて他になかった。

それが彼の芸術の原理であり、また生の規範でもあったのだ。

彼の言葉には曖昧さがない。

解釈の余地を残さぬ硬質な言葉で一切を断じていき、その切っ先は自らにも向けられていく。

かくして、彼は自らを不朽の作品と為すべく自刃を遂げることになる。

「人生は短いが、私は永遠に生きたい」と書き遺して彼が死んでから、もうじき五十三回目の冬がくる。