論破とかいう疫禍
論破とかいうのが流行っているようです。
子供ならまだしも、いい大人まで。
どこまで知性を投げ捨てたら気がすむのだろうと思います。
困ったものです。
論破という、人を蝕むもの
限られた議論の場を除き、日常において、まともな人は論破なんてしません。
なぜなら論破は人間関係の基盤である対話をぶち壊すからです。
対話とは洞察・共感・意見交換を重ねながら他者同士が分かり合おうとしていく行為をいいます。
それを投げ捨てて論破とかいう、言葉で人を刺すゲームにしてしまったらどうなるだろうか。
刺した側は一時的に胸がすっとするかもしれないけれど、人間関係という私達にとって最も大事なものを失ってしまう。
だからまともな人は日常において論破なんてしないし、できない。
言い換えると、論破とは他者に対して敬意や共感をもたず、人間関係を失っても平気なサイコパスの示す病態に過ぎないといえます。
そんなものが流行ってしまうのは、それを知性や強さと錯覚してしまうほど弱くて脆い人が多い社会であるということでしょう。
なぜ論破などするのか
このように論破というのは知性や頭の良さでなく、むしろ正反対に頭と性格のダメさを示すものにすぎません。
私の経験を振り返っても論破したがる人は劣等感が強く感情にのまれやすいタイプか、正真正銘のサイコパスのどちらかでした。
そんな論破病の人を前にすると、真面目で優しい人ほど自分に落ち度があるかのように錯覚してしまいます。
けれど、それは間違いです。
彼らは人を刺す癖のある病人であり、言葉で刺されて苦しむ他者を見て快感を覚える異常者にすぎません。
そんな相手とは遠慮なく人間関係を切りましょう。
彼ら自身、孤独な嫌われ者として生きていくことを自ら選んだわけですから、その方が彼らにとっても幸福なのです。
流行に背を向けよう
先日、立花隆が亡くなりました。
一時は「知の巨人」などといわれて一世を風靡した彼も、ブームの後は世間から忘れ去られました。
本多勝一は全盛期の彼を「節操なき知は堕落する」と批判しましたが、まさに流行りモノとは無節操で底の浅いものです。
誰かれともなく飛びつくようなものに、時代を乗り越えて価値を保ち続ける力はありません。
ましてや論破ブームなど有害無益であるがゆえに、その寿命は特に短いでしょう。
そんな下らぬもので自分の心を染めてしまわぬよう用心しましょう。
本当に価値のある大事なものは流行が吹き荒れる地表から離れた、深いところに静かに佇んでいるものです。