ヨンデー・パーカー、或いは存在の神秘について
某月某日
蠱惑的な猫のデザインが好評なヨンデー・パーカーであるが、初期ロットに印刷品質の問題が生じた。
見ての通り、ずいぶんと枯れた佇まいである。
困ったものだ。
これではアポロン的な均整美とデュオニソス的情念の対峙、そして権力感情の充溢といった思想が見えないではないか。
見よ、このジークフリート的傲岸を失った、うら寂しい横顔を!
こんなものを世に出したら、ショーペンハウエル的諦念と取り違えられかねない。
猫も文字も、もっと誇らしげな、生への燃えるような意志を示す鮮明な赤でなければならなかった。
”生ーわれわれにとってそれは、われわれが在るところの一切を、不断に光と炎に変えること、にほかならぬー(悦ばしき知識)”のである。
某月某日
それから1週間後、素晴らしい出来の最新ロットが届いた。
見れば見るほど素晴らしいデザインである。
この猫は太古の昔、海を漂っていた頃の我々の祖先にどことなく似ている。
まだ尾も持たず、流されるまま海を漂うほかなかったかれらは、やがて尾を創造して泳ぐことを覚え、ミトコンドリアとの邂逅を機に陸に上がり、長い年月を重ねて今あるヒトの姿へと自らを創造していった。
そんなかれらの末裔である私たちもまた、自らを自在に創造する能力を秘めて今ここに在る。
つまり「こう在りたい自分」は創造できるのである。
存在とは神秘である。
そして神秘のヨンデー・パーカーもまた4500円で、今日も販売中なのである。