或阿呆の日記

某月某日

オッサンとは病である。

・よくない身体(必死で運動しないから腹が出る)

・よくない頭(頭を使わないから理性が後退し、感情に代償された動物的な振る舞いをする)

・よくない性格(人には気を遣わないのに自分への気配り不足には敏感で、被害者意識ですぐ噴き上がる)

これらをオッサン三主徴といい、ヒトとしての基本活動を怠ると発症するとされる。

かくいう私もオッサン病疑いの濃厚な一人であり、徴候はそこかしこに見られる。

ただし幸いなのは、これが不治の病ではないということだ。

・身体をガツガツ鍛える

・広く本を読み教養の厚みをつける

・雑なおしゃべりでなく対話を心がける

つまりは疲れているだの面倒だのといった言い訳をやめ、身体と頭と感情をゆさぶるような普通の生を意志すれば良いのである。

某月某日

新しいクルマを契約した。

もともとは昨年の暮れ、車検に合わせてスポーツタイプの軽自動車に更新する予定だった。

クルマは片道15分の通勤にしか使わないし、そんなに長い期間持ち続けるつもりもない。

安全装備だの乗り心地だのといった小賢しいものは要らない、安くて通勤が楽しめそうな乗り物が欲しい、なんて考えた。

ところがボヤボヤしている間に意中のクルマは生産終了となり、あっという間にプレミアム価格で取引されるようになる。

じゃあ諦めて別なクルマにしようかと思っても、これというのが見当たらない。

かくて半年もの間クルマ一台決められずウダウダしていたところ、先月、突如として原因不明の腹痛に襲われた。

様々な検査を受けても原因が分からず薬も効かない。

毎日、拳を腹に押し込んで痛みを紛らわせながら指導に立った。

このまま一切が終わるのだろうかと夜な夜な考えた。

ハイデガーは現存在を「死に行く運命にあるもの」と定義するが、それは死が認識により捕捉しうるものという前提に立つ。

ところが自身が突如として死の可能性の前に突き出されるとき、認識はその機能を十全に果たさなくなる。

ちょうど巨大な絵画のすぐ前に立っても、認識はそれを絵画として捉えきれないように。

そんな1ヶ月が過ぎたころ、原因不明の腹痛は原因不明のまま消えていき、入れ替わりに戻ってきた私の認識はその手に二つの確信を携えていた。

すなわち、ひとつは生には必ず終わりが来ることへの確信であり、もうひとつは、そのもとで「可能性に向けて開かれる」存在の在りようへの確信であった。

先送りなんかしているヒマなんてどこにもないんだぞ、さっさと決めて動けと。

言い訳じみた一切を捨てて、在るべきところに向けて今を生き尽くせと。

こんな確信を得た証として、手始めにクルマを替えることにした。

結局選んだのは趣味性のない、安全装備てんこ盛りの中型車である。

私にはもうクルマなんかで遊んでいる暇はない。

さもなければ在るべきところに辿り着く前に終わりが来てしまう。