「互酬的な分与の場」という可能性にむけて

この写真は空手二段のお姉さんがご子息と共に、妹さんに空手を教えているところです。
教える方も教わる方も、本当に生き生きとして楽しそうです。
彼女らのワクワク感は傍らの私にも伝わってきます。
人と人とが教え教わる空間に生じるあの多幸感は一体どこからくるのでしょうか。
脱学校の社会
思想家イヴァン・イリッチは「脱学校の社会」の中で、学びの機会を独占し権威化した教育制度に代わって人と人とが技能や知識を教え合う機会を創出することが真の学びを可能にすると主張しました。
確かに、本来の技能や知識とはよく生きるための道具でしかありえず、学校という権威付けの装置など本質的には無関係です。
自分の得意なことを、それを必要とする人に手渡してあげる。
それだけで良いのです。
すると何が起こるでしょうか。
・手渡す側は自分のもつ技能や知識の価値を実感できる
・手渡された側は自分の人生の可能性を広げていく喜びが得られる
その結果両者ともに自己効力感(self-efficacy)、すなわち自分自身の価値を確認することができる。
つまり、どちらも幸福になるのです。
そして教えたい人と教わりたい人が出会うための仕組みとして、イリッチは“Oppotunity Web”(機会の網状組織)を構想します。
それから50年後のいま。
インターネットというOppotunity Webそのものを手にした私達は、はたして自由な学びを手に入れたのでしょうか?
教え教わるという人生屈指の喜びを体験できているでしょうか?
頽落のなかで
いま私達は、スマートフォンを触れば山のような情報に触れることができます。
動画サイトでは色んな専門家が色んな知識を披瀝しています。
教えたい人と教わりたい個人をつなぐウェブサービスも散見されます。
けれどどうでしょう。
私達はそれらの容易く手に入る学びから”生の充溢”を実感しうるものでしょうか。
技能や知識の交換による生長の快味を最近感じたことはありましたか?
人に何かを分与する多幸感を味わえていますか?
全くもって「否」ではないですか?
学校を出たら学びはおしまい。あとはそいつをカネに換えるだけ。
仕事上の必要から本を読んだりセミナーに出ることはあっても、それらから実存を揺さぶるような体験を得ることは難しい。
かくて、教え教わり生長していく幸福も知らず消費と性とチンケなオタク趣味の中を生きてしまっている。
そんな人が大多数ではないでしょうか。
むろん私自身、なんら例外ではありえません。
ヨンデーは総合的な私塾をめざします
これからヨンデーはあるべき私塾を目指して変わっていきます。
今は「トレーニングの私塾」ですが、3年後を目処に「分与すべき才を持つ人と、それを真剣に求める人とをつなぐ場」へと変えていきます。
学校の劣化版にすぎない旧来のカルチャーセンターでなく、然るべき大人同士が技能や知識を交換する場にします。
教える側も教わる側も共に敬意と緊張感を共有し互いの生長を真剣に追求する。
そこでは「金払ってやってんだから面倒見ろ」も「俺が教えてやってんだから口答えするな」も共に排除される。
こうした私塾化の可能性をさぐる試験企画を現在準備中です。
ヨンデーが、私が、この企画に関わって下さる方々がどう変わっていくのか。
想像するだけでソワソワしています。