桃尻男
説教師(仏教を説いて回る僧侶)を志した男がいた。
彼は考えた。
説教師になってあちこちから声がかかるようになったとき、送迎の馬にも乗れないイモ(桃尻男)じゃカッコつかないだろうと。
かくして乗馬の稽古に励んだ結果本業の勉強が疎かになり、何も成さずに年老いて終わった。
おなじみ徒然草の「桃尻なる法師」である。
この寓話は、何か事を成したければ物事の優先順位を弁えて一つ事に専心すべきであるという教訓をもって結ばれる。
人生の使いみち
兼好の時代の平均寿命は定かでないけれど、今よりずっと短かったのは間違いないだろう。
かりに人生30年としたら、稼いで飯を食って子を残すことだけが人生の全事業かつ全目的にならざるを得ない。
対して今の私達はおそらく彼らより40~50年も余計にこの下らない世に留まる羽目になる。
となると一つ事だけでは長過ぎる人生を持て余すことになり、かくして自由な時間という難問が生じる。
エーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」において、中世のガチガチの身分社会から解放されて自由を手にしたはずの人間がナチスのファシズムを希求していく動機を考察した。
そこで示されたのは、人は自由であることの不安や孤独を自分で引き受けるキツさより権威的なものや社会的な空気に管理されるラクさを選んだという事実であった。
自由を引き受ける重さより家畜的な平穏を求める心情、ここにおいて約700年前の日本人や約90年前のドイツ人達と今の私達を分けるものはなさそうだ。
自由な生を創造できるはずの時間とカネを持った私達が「稼いで飯を食って子を残す」以外の、生への動機をもたない。
こんな無残で退屈な話があるだろうか。
桃尻との袂別
こう考えてくると「桃尻なる法師」の生き方は一つの抵抗の形式かもしれない。
今の私達は食う・生む・育てる以外の事業にも専心できるだけの自由な時間とカネがある。
忙しいなんて嘘である。
スマホの上をチマチマ走らせているその指を止めたら良い。
カネがないなんて嘘である。
クルマだの飲み食いだの、凡庸な消費にカネを捨てるのをやめたら良い。
「みんながやっているから」なんてメダカみたいな根性を捨てないかぎり、私達のケツはずっと桃尻のままだ。
自由と趣味
先日、最高難度のピアノ曲であるリストのラ・カンパネラを弾くハチマキ姿の男性の映像をみた。
彼は漁師であり、50歳からラ・カンパネラを弾きたいとピアノを始めたという。
堂に入った運指も芸術的逸脱の態度も、驚くほど見事なものだった。
彼のそれは消費としての趣味でなく自分が消費されないための趣味である。
自分以外に替えのきかない自分をつくるための貴族的な試みとしての趣味。
それこそが自由というものを投じるに価する行為ではないか。