或阿呆の日記

某月某日


”死へとかかわる実存論的に企投された本来的存在の性格づけを総括すれば、次のようになる。すなわち、先駆は、現存在に世人自己のうちへの喪失を露呈してみせ、現存在を、配慮的に気遣いつつある顧慮的な気遣いに第一次的には頼ることなく、おのれ自身でありうる可能性に当面させるのだが、そのおのれ自身とは、情熱的な、世人の錯覚から解放されている、現事実的な、それ自身を確実だとさとっている、不安がりつつあるような、そのような死への自由におけるおのれ自身なのである。”(存在と時間/第一部第二編第一章五十三節)

世人とは薄っぺらな会話を垂れ流し、流行のケツを追い、何の見識もないのに分かった風な顔をしている人々をいう。

かれらは「代わりのきかぬ、他ならぬ自分で在ること」の価値を忘却し、稼ぎとか、社会的地位とか、SNSのフォロワー数とかいった、他人とお揃いのガラクタ集めに励む。

対して「死へとかかわる実存論的に企投された本来的存在」とは、死という終わりを引き受けつつ(先駆)、「おのれ自身である可能性」、すなわち創造的な生に向けて手を伸ばしていく孤独で勇敢な在り方を選ぶ者である。

「死への自由におけるおのれ自身」とは、おそらく、そういうことだ。

ラクなのは世人として流されることであり、キツいのは本来的存在であろうとすることである。

さて、どちらの方に進んだものか。

某月某日


スポーツカーは反時代的でなければならない。

すなわち、乗り手の技量を問うものであること。

緊張と忍耐を強いるものであること。

スポーツカーは危険で、不穏で、人に媚びない機械でなければならない。

さて、この小さなスポーツカーの安物ホイールにはSein(現存在)と刻銘があり、しかもプレート・ナンバーは4005(死に向けてゴー)である。

これは「死への自由」に向けて進め、との啓示か?