ヨンデー毎日

”悪趣味の忘れがたい魅力は、人に嫌がられるという貴族的な快味にある。(小説とは何か/三島由紀夫)”

某月某日


貴族的態度とは反-世俗であり、反-良識であり、また反-道徳の態度である。

凡庸な価値に染まることを峻拒する精神の在り様である。

「他人でも生きられる人生を、この私が生きて何になる」という自我の咆哮である。

さて、ヨンデー猫Tシャツが静かに売れている。

猫の不穏な眼差しは懐疑家のそれであり、マスクに覆われた自我は他者の介入を容認しない。

まさに貴族的な態度を表象化したものがヨンデー猫なのである。

環境変化の多い、何かと気忙しい季節であるが、「他人は他人だ、私は私を生きる」という貴族的態度の徴を胸に、誇り高く日々を送りたい。

某月某日

隣の大手ピザチェーンの店舗が閉業した。

彼らが物件の下見をしていた頃から仕事ぶりを注視していたから、なんともやりきれない。

店を始めるには立地選定、商圏分析、売上予測、競合調査、経営計画立案、資金調達、従業員選定、従業員教育、内外装工事、駐車場契約、広告宣伝、そして撤退費用の想定まで膨大な工数と費用がいる。

そして、どれか一つでも手落ちがあると必ず躓くのが店舗商売である。

私はこれら全てを自力でやっていたから、ヨンデー開業まで3年の時間を費すことになった。

それが彼らのような世界的チェーンストアともなると、看板がついたと思えばもう開業である。

広告宣伝一つ取っても、プレスリリースのタイミングから開業前の期待感の煽り方まで隙がなかった。


以来多くの人が訪れ、アルバイトたちが忙しく動き回り、活況を呈している風に見えていたが、商売というのは分からない。

ピーター・ドラッカーは「全ての組織は社会貢献のための器官である」と述べた。

器官とは生命維持において欠くことのできないものだ。

そして店は街における器官である。

店で働く人たちがいて、店のサービスを享受する人たちがいて、街は街として生きることができる。

街から店が一つ消えていくことは、街の生命が衰亡していくことに他ならない。

いまやインフラの維持さえ覚束ないほど衰えた国の一隅に暮らす者として、単なる消費者視点とは違った位置から「店という器官」を捉えるだけの社会的視力は保っておきたい。