ジムができるまで⑪

2020年は最高の一年だった。
コロナ禍はハイデガーのいう先駆的覚悟性、すなわち死が生というものの輪郭を明確に規定すること、を自覚させた。

2011年の3月、原子力発電所の爆発という世紀末的な姿を目にした時のことを思い出す。
あの日、私は「ここでくたばると知っていたなら、薬物を使ってでも自分の力の限界を見ておきたかった」と思った。
それから9年、ウェイトトレーニングに没頭してきた。

ウェイトトレーニングは、力を培養する麻薬のようなものだ。

ニーチェは、力の上昇が生の根拠であり、力とは比較の上に立ち現れる概念であると規定した。
ウェイトトレーニングとは、自意識が、自意識それ自身で仮構したseinを比較対象として際限なく力を培養していく仕組みである。
もしウェイトトレーニングを突き詰めていこうとするならば、それは、ただただ力の想念に向かって定向進化(オーソゲネシス)を続けていくことに他ならず、はたして定向進化の先にあるものは、恐竜がそうであったように、巨大化の果ての滅亡しかない。

さて、滅亡という栄誉に向かってトレーニングとの”venusberg”に入り浸っていた私の前に立ちはだかったのがコロナ禍である。
コロナウイルスに感染・発症した人の半数に、呼吸器への障害や強い倦怠感などの後遺症が残ると言われる。
万が一そんなものを食らったらトレーニングどころではない。

コロナのおかげでジムにも行けなくなった。
自宅でバーベルを振り回してはいたものの、やはり一線を超えた強度のトレーニングをするのはジムでないと難しい。
仕事であるトレーニング指導業も大きく影響を受けた。
こんな世界に一変してしまった中で、どうやってトレーニングと、トレーニング指導業を続けたものか。

そもそも、もし明日死ぬとしたら?
明日死ぬとしたら、今、今の瞬間の自分はどこでどう生きていたいだろうか。
来る日も来る日も自問を重ねたけれど、バーベルの前にいる姿くらいしか想像できない。

嵐の一夜を超えて、曙光をのぞむ

かくして、コロナ禍のおかげで理想とするジムというものが明確な像を結び、受胎と相成った。
これは喜ばしい誤算である。

2020年は最高の一年だった。
2021年はより最高の一年がくる予感しかない。