ジムができるまで⑨

10年前、訪問型トレーニング指導業を始める前後に買い集めた本を最近になって読み直している。
ドラッカーやポーター、コトラーといった定番どころからランチェスター経営、チラシ作成のマニュアル本まで。

中でも面白く読んでいるのが「7日間でマスターするレイアウト基礎講座(内田広由紀/視覚デザイン研究所)」だ。


この本の面白さはデザインやレイアウトといった、一見、感性でしか評価しえないと思われているものを的確な言葉で評論するところにある。
A案とB案を並べ、なぜ一方が良くて一方はダメなのか、門外漢の私にさえ腑に落ちるレベルで、デザインというものが解体されていく。

感覚に包まれていたものが、論理のナイフで解体されて、目の前に並べられていく。
これほど興奮できる体験はない。

おなじく、感覚の占める割合が大きなスポーツの世界でも近年は分析的に語ることのできるプレーヤーが増えてきた。
一昔前とは大違いだ。

論理への渇き

一昔前、スポーツとは「強い者が強くなるもの」に過ぎなかった。
私が大学時代に取り組んだ重量挙競技も、まさにそうだった。

もう30年近く前の話になる。
私は大学入学と同時に重量挙の門を叩いた。
本格的に体を鍛えたくて、ボディビルや武道、格闘技のサークルを見て回った中で、体育会のそこが最も設備が充実していたからだ。

自己流の筋トレ程度しか経験のなかった自分にとって、重量挙競技は非常に難解だった。
それでも始めて2年ほどは、やればやっただけ伸びていく。
ところが3年目になると、見事に伸び悩んだ。

ここから伸ばす方法はないものか。
先輩に訊いても要を得ない。
オリンピックに出た先輩も、後に大学教員となる先輩も、明確な言葉は示せなかった。

私も先輩方も、伸ばすのに必要なのは「才能」という、何か掴みどころのないものなんだろうと思いこんでいた。
そうした思い込みの誤りに気がついたのは、重量挙から離れて10年も経ってからだ。

当時の重量挙の世界には、言葉がなかった。
重量挙の感覚的な部分を、共有可能なものとして掴み出す論理がない。
私はそこに渇きを覚えていた。

ピリオダイゼーション、栄養、関節可動域の評価。
せめてこの程度の知識の一片でもあれば、もう少し伸びていただろうにと思う。

感覚が重要な身体運動だからこそ、感覚頼みじゃダメなのだ。
論理的に解体する知識がないと、何も語っていないのと同じだ。

話せば分かる

運動という、感覚に多くを依存した曖昧なものを、論理によって共有可能な言語へと変換する。
こうした翻訳作業を行うのがトレーニング指導の専門職の仕事だといえる。

であるから、トレーニング指導の専門職を10年もやっていれば、同業者の実力は立ち話程度で完全に分かる。
優れた人の言葉には曖昧さがない。
彼らは論理的で、抽象度の低い言葉を使う。
そうじゃないと指導対象者に微妙な感覚は伝えられないからだ。

逆にフワフワした言葉を使う人で、評価に価する人を見たことがない。
その手の人は知識も技術も見識もないから、分かること/分からないこと、できること/できないこと、の区別が付かない。
だから全てを曖昧にボカし、全て分かっている風に振る舞う。

ところが、そんな曖昧で理解しづらい言葉ほど「専門家しか分からない高度な言葉である」と一般の方は誤訳しやすい。
困ったものだ。

ジムを持つということ

私がトレーニング指導者として活動を始めて10年。

今までは契約したスポーツチームや個人の方に限った仕事をしてきた。
しかし年明け、ジムを持つことで、広く世間の方々を対象とした仕事に移行することになる。
同業者との比較の土俵に、ようやく立つことができるということだ。
楽しみである。